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Enjoy a day out in the English Countryside
あまり明るい話題ではないのですが。。。
今回は去年の9月に86歳で亡くなったジョンのお父さんのことを書いてみたいと思います。
先月、7月の後半、お客さんが入っていない平日にジョンと2人でチェルトナムから車で30分ほどの隣町のチュークスベリーに行ってきました。ジョンのお父さんの散骨のためです。 お父さんはとても現実的な人で宗教をまったく信じていなかったそうで、生前から、自分が死んだら葬式はいらない、灰もその辺に撒いてくれていいとジョンに言っていたとのこと。本人の希望通り、元気な頃によく散歩していたチュークスベリーの町を流れるセブン川に流すことにしたのです。もちろんお墓はなしです。 イギリスでは日本と違い、遺灰を撒くにあたり特に許可はいらず、だれでも好きなところに遺灰をまくことができるそうです。土葬の場合は個人のお墓になりますが、火葬で遺灰を散骨するとお墓がないので、故人を偲びたい人はどうするのかな、と思っていたら、市営墓地の敷地内に公園らしきものがあり、その歩道に沿ってプレートが並んでいました。お花を上げた後もあったので、それがお墓代わりなのでしょうか。
ジョンの両親はジョンがまだ小さい頃に離婚、その後それぞれ再婚しましたが、お母さんは再離婚、お父さんは再婚相手をガンで亡くしていて、私達がチェルトナムに引っ越してきた頃は1人で老人向け集合住宅に住んでいました。元気な頃は、イギリスの冬を嫌い、毎年11月頃から3月までオーストラリアのパースに部屋を借りて冬を過ごすのを楽しみにしていましたが、そのうちに長いフライトが体力的に無理になり、それでは近場へと翌年に行ったマルタ島で入院するはめになり、以降、冬場も自分のアパートで過ごすようになりました。80歳になると、事故を起こすと他の人に迷惑がかかるから、と車の運転をやめ、その頃に見つかった前立腺ガンのため、少しづつですが体力も落ちて、益々行動範囲が狭くなりましたが、それでも施設に入るのを嫌い1人でアパートに住んでいました。小さいときに別れたとはいえ、やはり親子、たまたま近くに住むようになってからまた交流が始まり、お父さんが弱ってきた頃には定期的に様子を見にいってました。私も時々ジョンに同行してアパートを訪れましたが、1人暮らしとはいえ、とても几帳面な人で、いつ行っても部屋の中はどこもきちんと片付いて感心したものです。あまり社交的な人ではなく、ちょっととっつきにくいところもあり、私は苦手意識もあったのですが、私の誕生日にはプレゼント代わりのお金の入ったカードを毎年かかさずくれたものです。去年の7月に倒れ、病院に運ばれましたが、症状が落ち着いた頃に、病院側から、ホスピスかケアホームのどちらに移りますか、と聞かれ、自分のアパートに戻りたいと強く希望したのが、末期だったせいかなんと認められたのです。24時間付き添いのケアラーをつけてくれ、床ずれしないベッドを運ばれ、自分の部屋に戻って安心したのか、病院から戻って8日目に亡くなりました。亡くなる前に会いにいったのですが、穏やかな顔をしていました。本人の希望通りお葬式はなし、遺体は火葬日までお葬式屋さんに預けられ、5日後、チェルトナムの市の墓地の敷地内にある火葬場で荼毘にふされました。
スコットランドに住むお兄さんも老齢で体調が悪く、ジョンのお姉さんも仕事で来られず、立ち会ったのはジョンと私の2人だけというさびしいものでした。日本のように骨を拾う儀式もなく、それではいついつに遺灰を引き取りにきてください、との火葬場の人の言葉で終わったあっけないお見送りです。住んでいたアパートの整理などやることはありましたが、それ以外はローカル紙にお父さんの死亡を伝える告知を出したことだけが亡くなってからの作業でした。 大分前ですが、私の父が死んだ時の葬式とそれに付随する諸々の煩雑な作業を思い出すと、今回は気が抜けるほど簡単に済んでしまいました。
あまり似ていない親子でしたが、宗教を信じない無神論者というのはジョンも同じで、戻ってきた遺灰が入ったつぼに、その辺に置いておけばいいよ、He doesn’t mind(かまわないと思うよ) と言うのには私もびっくりしました。祭壇もないのに居間に置くのもちょっと、と結局地下の部屋の隅に保管したのです。あまり日にちを空けないで散骨するのかと思っていたのですが、お姉さんが、その時期10年以上可愛がっていた犬が死に、落ち込んで散骨どころではない、とのこと。結局、暖かくなる翌年に持ち越すとのジョンの言葉でした。小さい時に別れたとはいえ、お父さんより犬の方が大事なのか、元気な頃は年に一度はお互いに行き来をし、クリスマスには一緒に食事もしていたし、長く同居していたボーイフレンドと別れてからは時々金銭的に援助もしてもらっていたのにと、このお姉さんの態度にもまたまたびっくりしたものです。
年が明けて暖かくなり、仕事が忙しい時期も過ぎたのに、散骨の話は出てきません。 最近は1人暮らしの認知症のお母さんの世話をしに頻繁にマンチェスターに行くので忙しいのはわかりますが、いつまでもお骨を地下の部屋に置いておくわけにはいきません、私が何回も催促してやっとチュークスベリーに行くことなった次第です。 生前、お父さんと一緒にランチを食べにいった郊外のパブで(お父さんを偲びながら)食事をした後に町に戻り、セブン川に沿って拡がっている野原から静かな川のほとり出て遺灰の半分を、野原に戻って、Abbey(教会)が見えるところで残りの遺灰を撒きました。私の感覚では、遺灰を撒いてから食事、というのが普通ではないか、とも思うのですが、なにはともあれ、やっとやるべきことを終えたと、私の方がほっとしたものです。
生前、特にお父さんの体調が悪くなってからは、頻繁に様子を見に行き、買い物、家の中の修理などをこなし、入院してからもアパートと病院を何度も行き来していたので、えらい、よくやる、と感心していたのですが、この遺灰に対しての無関心さにはどうも感覚的についていけません。 人間は生きている間が大事、死んでしまえば終わり、というのが無神論者の考え方なのでしょうか。 特定の宗教を信じているわけでも興味を持っているわけでもないのですが、日本に帰国すれば実家の仏壇に手を合わせ、お墓参りに行く私にはこの割り切り方がどうにも理解できないのです。
上記の写真は食事に行ったお父さんのお気に入りだったパブで、周囲は牧草地か野原で他は何もない中ににポツンと建っています。昔の街道筋だったのでしょうか。古い部分は400年前のものだそうです。 昔ながらのパブの雰囲気を残し、食事もそれなりにおいしく、量もたっぷりで地元の人には人気があり、平日でも年配の人達でにぎわっていました。私が頼んだのはミンツパイ、ジョンはフィッシュ&チップス です。